鐘の鳴る丘 有明高原寮
長野県に塀もフェンスもない少年院がある。
その名も「鐘の鳴る丘 有明高原寮」。
窃盗などの軽微な犯罪を繰り返す少年の更生施設だそうだ。
ここは、少年院でありながらも塀もフェンスもない。
少年たちの収容期間は3〜5カ月。
法務教官らの指導のもと、集団生活を通して自らの罪を反省し、問題点を改善しようと日夜励んでいる。
罪を犯した少年それぞれが、自分に足りない所や、何故罪を繰り返したか、に自らが気づき、二度と過ちを繰り返さない強い心になるよう導く施設だ。
先日、TV(BS)で再放送された『人は変われる~有明高原寮の少年達~』という長野放送が作った、第50回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品は、昨今の体罰問題や教育の行き詰まりに、一石を投じるような番組だったので、ブログにまとめておこうと思う。
↓↓↓Amazonで購入できます↓↓↓
得られなければならなかった良質な体験
『少年院』と聞くと、“どれだけ悪さをしてきた少年がいるのだろうか?”と思いたくなるが、実際のところ、ここに入院している少年は、普通の子供と変わらない印象を受ける。もちろん、プライバシーがあるため顔は映らないが、その佇まいや話し方はいたって普通。
ここの生活は規則正しく、そして、快活だ。
夏は、農作業や草刈り。冬はスキー。ギターや将棋のクラブ活動もある。やったこともない農作業も、教官が優しく教えてくれ、いつしか少年達は、責任をもって農作物の世話ができるまでに没頭していく。これらは、心の欠けた部分を埋め、新しい自分自身の価値観で埋めて行く作業。新しい自分を取り戻す作業なのだ。
このような実情を、ある教官が
「もしかしたら、一般社会の方たちは、なんだお遊びなんじゃないか?
林間学校にきてやってるんじゃないか?
悪いことをしたのに、国税を投入して莫大なお金を使って
いい思いをさせているだけではないか?と思うかも知れない。
ただ、本来で言えば、家庭生活や社会生活の中、学校生活の中で
得られなければいけなかった良質な体験をしなかったがため欠落した部分がある。
ここでは当然、叱る時は叱る、悪い時は悪いというが
同じように足らない部分を補う。良質な体験をどんどんさせる。」
と、こんな風に言っていた。
欠けているもの。
それは、一人一人異なるだろう。
しかし、共通して言えることは、大人(人)への信頼や、誰かの役に立っているという充足感。つまりは、人との関わりの中で培われる、人としての存在意義みたいなもののように見えた。
更生率は80%以上
ここを出た少年達の更生率は80%以上だそうだ。
80%以上の少年が、再犯を犯していないのだ。
これは、どんな環境や苦悩に陥っても、自分で解決し、正しい道を選択できる大人に「変わる事ができる」ということが分かる。
また、ちょっとだけ驚いたのは、ここの指導には、少しも暴力的な事は一つもない。
教官の少年達への指導は、極めて快活で、はっきりとした口調で話し、少年たちへもはっきりした口調で返事をすることを求める。教官一人ひとりの目は優しく穏やかで、少年たちは警戒心をほどいて接することができているように見えた。
少年院の教官なんだから、すごく怖いのではなかろうか?
そんな風にイメージしていたが、全く逆だった。どの教官も優しく、懐の深さを感じるのだ。
『どこからどこまでが体罰か?』
『多少の体罰は容認すべき』
などの論調が飛び交っているが、ここでの教育を見ているとそんな議論さえもナンセンスに見えてくる。
なぜなら、この施設では「導き」による指導や教育しか行われないからだ。
↓↓↓Amazonで購入できます↓↓↓
子供は、真っ白な状態でこの世に誕生する。
色んなものを吸収するため、真っ白な心で、それはとても無垢だ。
そして、子供を取り囲む、多くの環境の中で、色んな人や物に触れ、自我が芽生え、自分の価値観を構成していく。社会というのは本当に大きな役割を持っている。それは、親とか学校の先生だけはない。子どもたちが目に触れるもの、耳に聞こえてくるもの、体で感じるもの全てだ。
それが何らかの形で歪んでしまった時、それは、できるだけ早く誰かとの関わりの中で、戻してあげなければならないのだろう。生まれたばかりの無垢な状態には戻れなくとも、しなやかに良い方向に戻れるように導いてあげなければならないし、それが大人の役割なんだろうとつくづく感じる。
人は社会で育っていく。
そして、歪んでしまった心は社会が矯(た)めていく。
「愛」という言葉は軽々しく使うのはあまり好きでは無いが、子供の欠けた心と歪んでしまった心を戻すのは、愛にあふれる信頼できる大人の存在しかないと感じた。
人は変われる。まずは、そう、大人が信じてあげないといけない。