(2013年10月13日に訪れた、宮城県名取市閖上地区に関するコラムです。)
人の記憶は薄れていく。
あんなにも驚愕した3.11の震災の記憶でさえ、私の中から少しずつ薄らいでいる。
そんな思いにかられた。
始めて入った宮城県名取市閖上地区。
テレビを通して、その甚大な被害を見聞きしていたものの、実際、自分の目で見ると全く違う感覚を感じる。
このエリアは、3方向から津波が押し寄せ、避難所となっていた公民館なども含め、多くの方が犠牲になった地区だ。死者911人・行方不明者41人、半壊以上の建物5,000棟以上という甚大な被害を被り、犠牲になった人の密度が最も大きかったエリアだそうだ。
現在の閖上地区に入る前に、仮設商店街のカメラ屋さんで、昔の航空写真を見せてもらった。そこで、建物がひしめき合う、大きな街だった事を知っただけに、実際の被災エリアとのギャップに唖然とするばかりだった。
湾を取り囲むように密集していた住宅と、それに接する広い水田。
今は、住宅の跡と水田の跡の境は分からず、ただただ、広い荒野が広がっている。

記録のためにカメラをかまえてファインダーを覗いてみるが、なんか違う。まったく表現できない。
切り取られたカメラのレンズを通してみる光景では、この状況は全く表現されないのだ。写真では分からない。その場に立ち、その目で見ないと分からない。身体があおられるような海風を感じないと決してこの光景はわからない。そう実感した。
仮設商店街のカメラ屋さんの店主が、こう言っていた。
『ポツンとね、お寺さんが残ってるんですよ。すごくそれが目立つんです。』
本当にそのとおりだった。ポツンと残されたお寺さんが、街を見守ってくれているように感じる。
日和山
お寺さんから少し進むと、小さな小高い丘のようなものが見える。日和山だ。小さな山の上に神社が残されている。ここに観光バスが止まり語りべが震災の事を話すポイントになっているようだ。
すると、その丁度向かいに小さな小屋が立っていて、そこに数人の方が集っているのが見えた。こちらを見て“どうぞ”と言わんばかりに立ち上がった。それに吸い込まれるようにその小屋に立ち寄ってみた。

そこには数名の元住民の方々が集まりお茶を飲んでいた。
話を聞くと、皆さんは、このあたりに住んでいた方々で、いわゆる“お茶飲み”をしているとのこと。
“ぜひ、コーヒーでも飲んでって。”と、進められるままにパイプ椅子に座り、みなさんの輪に入った。

数名の元住民のお父さん・お母さん方は、みな被災された方だった。もちろん、家は無くなり、中には家族を亡くされた方もいらっしゃった。終始笑顔の皆さんが、笑いながら震災の事を沢山語ってくれた。
あと15cm後ろだったら助かっていなかった
震災の大津波で車に乗ったまま流されたお父さん。
丁度、車に乗っていた時で、あれよあれよという間に、水面をすーっと車ごと流されたそう。
どんどん、どんどん流されたが、運良く助かったそうだ。水圧のせいで車のドアが開かなかったが、脚で蹴りなんとか開けた。必死の思いで外に出たが、足をついた所も運が良かった。あと15cm後ろだったら、1メートル以上も深い水の中に落ちていただろうと、笑いながら語ってくれた。
その後、みぞれが降る寒い夜に、ようやく着いた避難所で女の子にバスタオルをもらって、それがとても温かかったそうだ。でも、その女の子の顔は全く思い出せないそう。その時のバスタオルの感触だけが記憶として残っているとのことだった。
『震災1日目に食べたおにぎりは、古米を水で戻したおにぎりだった。冷たいあのおにぎりの味を、我々は絶対忘れてはならない。』
と強く語ってくれた。そして、そんなお父さんの語りは、とても明るくにこやかだ。時折、ユーモアを交えながら、時に力強く語りかける。
『あの時助かったのは、ほんとに運だと思う。あれがよかったんだとか、これが良かったんだとかなんて何もないんだ。ただ、あの時助かったから、今は何があっても死のうなんては思わない。頑張って生きなければ、あの震災で亡くなった方に失礼だ。』
そういいながら一拍おいた。
お母さんやお父さん方の語りには、なんとも言えない暖かさを感じる。自分たちの体験を、いかにみんなに役立てて欲しいか、という思いがヒシヒシと伝わるのだ。
南海トラフとかが危惧されている四国方面の方々にも、本当に備えをして欲しいとおっしゃっていた。
みんなに知ってほしい。
みんなに来て見てほしい。
とにかく、大きな地震がきたら逃げること。子供の事や奥さんの事が心配になる気持ちも分かるけど、そうやって自宅に戻ってきて津波にのまれた人が大勢いたんだ。だから、各自で逃げることが最も大切。そうすれば、必ず数日後には避難所で会える。
そう何度も何度も繰り返されていた。
ここのお茶飲みスペースは誰でも寄っていいそうだ。特に、被災地外からの客人に寄って欲しいそうだ。こういういろんな話を聞かせたいんだと言った。
『皆に来てくださいって言ってください。皆に見て欲しいし、聞いて欲しいんですよ。何があったかを。』
力強く、そして優しい口調で私に何度もそう語ってくれた。
途切れない話の途中、何台も観光バスが小屋の前を通り過ぎた。そのバスに向かって、毎回、お母さんやお父さん達は、大きく手を振って見送っていた。また来てね。といわんばかりだった。
初めて入った閖上地区。
広大な平野が西日に照らされ、背の高い雑草たちが黄金色に輝いていた。
相変わらず煽るように吹く強い海風が、遮るものなく私を叩く。
2時間近く話し込み、名残惜しそうな皆さんにお礼をいいながら後にした後、立ち上がり何度も何度も手を降る皆さんに、心の奥で頑張ってとつぶやいた。
偶然出会った語りべのみなさんに、また、会いに行こうと思う。
下記の場所で皆さんと一緒にお茶を飲んでみてはいかがでしょうか?
震災の記憶の語りべを通して、何かが見えてくるはずだ。