ちょうど1年前、劇場に観に行った映画 “Mommy”。
それは、若き天才監督の、誰もが待ち望んでいた最新作だった。
日常から隔絶された真っ暗な劇場のスクリーンに浮かび上がる、アスペクト比1:1で描かれたポートレイト風の映画。正直、衝撃をうけた。
もしも、“心”というものが心臓であるとしたら、その私の心臓はゴム風船を膨らませたように大きく膨らみ、その質量は何倍にもなっていただろう。見えるものなら、この目で見てみたかった。感情が揺さぶられ、膨らんだ自分の心を。
タクタクとした小さな鼓動が止まらず、スクリーンから目をそらすことができない。
そんな映画が、“Mommy”だった。
あれから1年。
ちょうど、もう一度観返したいと思った矢先に、WOWOWのグザヴィエ・ドラン特集で放映されていたので、自宅の100インチのスクリーンで観直してみた。映画レヴューは、すでにFilmarksに触れているので、また違った視点でブログに残そうと思う。
愛されたいという感情
人間は、だれしも『愛されたい』と思う。
でも、愛されたい相手は誰でも良い訳ではなく、“自分が愛している人に愛されたい”というのが、基本的な本音だろう。だから、愛されるために、愛する人にできることはしてあげたいと思う反面で、自分の思い通りにならない時には、攻撃的に相手を憎んでしまうこともある。
それもこれも、愛し愛されたいという欲求に基づくものであり、極めて原始的な人間の感情だ。
でも、こんな“愛し愛されたい”という思いは、日常の中では影を潜める事も多い。
より理性的に、より理知的に。
心の中で沸き起こる感情を押し殺し、極めて冷静に振る舞いながらやり過ごす。
でも、映画 “Mommy” で映しだされる愛は違う。
感情に正直だし、周りの目よりも自分の感情を優先し、体全体で愛を渇望するし、それを愛を受け止めようとする。“愛”という概念である名詞に形があるならば、こういう形をしているのではないだろうか?そんな輪郭が見えてくるような描写に心打たれてしまう。
愛を、こんな風に素直に表現できたなら。
それは、一種の内に秘めた憧れかもしれない。
最終的な分からなさが愛おしい
グザヴィエ・ドラン監督作品の過去作はほとんど観ているが、本作は比較的シナリオが分かりやすいような気がする。他の作品も難解という訳ではないが、その中でも理解しやすい描写が特徴だ。
しかし、そんな分かりやすい愛の表現であっても、実は、ドランの内にある本当の母への感情というものは分からないのだ。恐らく、特別な感情を抱いている事は分かる。しかし、それがポジティブなものなのか、ネガティブなものなのか、それすらも分からないのである。
ただ、母の日にカーネーションの束をささげ、“母の日ありがとう”、“息子よありがとう”というようなシンプルな思いだけでは無い事だけが、なんとなく分かる。
本作 “Mommy” においても、最終的には監督自身が抱いている母親像は、よく分からない。
だが、その分からなさが、ますます愛おしくさせるのである。
何度も何度もくり返し観ることで、さらに愛着深くなる映画というものがある。
まさに、本作“Mommy”もそうであり、これから幾度と無く鑑賞することで、さらに愛したくなる作品になることだろう。そして、ドランの中にある隠し扉を、何度も何度も開けたくなってしまう事だろうと思う。
今年のカンヌで、フランス人の女優であるレア・セドゥがこんな事を言っていた。
「わたしたちはグザヴィエのことを愛している。そして、誰もが彼に愛されたいと思ってしまうの」
これは、きっとキャストだけでないだろうと思う。
ドラン作品を観ているユーザーでさえ、ドランの愛に引きこまれ、彼に愛されたいと思ってしまう。グザヴィエ・ドランは、そんな媚薬のような力を持つ、次世代の監督なのである。
まだ、未見の方は、ぜひスクリーンでご覧になることをおすすめする。ミニシアターなどで、上映の機会があったら、ぜひ!
▼Filmarksレビュー
“良き母”、“良き妻”、“良き女”。どれもこれも、定義は曖昧だけれども、本音をいうと、こういうものを表面だけなぞった描写は息苦しい。母として、妻として、女としての人生なんて実際は、もっとギスギスしているし、ドロドロもしている。残酷なまでの犠牲も飲み込むし、見えない所でため息と涙がこぼれるような事も多いのだ。
だから、表面をなぞるような描写には、女は、こうあるべき、こうすべきと描かれ、それらから外れたら、母失格、妻失格、女失格と言われてしまうのだろうかと、危うささえ感じてしまうことがある。
そこで、ドランが描く、『愛』の結論。
それは、あまりにも正直で、そして真正面から表現しているところが、痛々しかった。これほどまでに、それぞれの立場でそれぞれの感情をストレートに表現されると、その切なさに涙があふれてしょうがない。
母はどこまで愛せるのか、
母はどこまで愛してくれるのか、『愛』という言葉でさえ軽く感じてしまうほどに、人間の奥底の原始的な感情への挑戦のように見えてくる。
アスペクト比 1:1 の画角は、すべてがポートレイトのようで、余計なものが写り込まない分、登場人物の感情が余計に際立つ。
さらに、、、、
極めて重く、一度描き方を間違えると、じめじめしがちなテーマであるのに対し、ドランのパステルカラー使いは独特な柔らかさでその世界を鮮やかに描ききる。
メインの登場人物3人の演技は、もう圧巻。リアリティがここまでくると、ドキュメンタリーではないかとさえ思えてくる。役柄が乗り移るというよりは、そのものになっていくという感じ。
中でも、カイラの存在がツボだった。具体的な背景は描かれなかったが、心にトラウマを持つ元教師の激しい吃音と、話す度に浮かべる哀しい表情が、胸をうつ。
母子の中に入ってきた、カイラの存在、そして心の交流は、元々あったテーマに、さらに厚みをつける絶妙なエッセンスだったように思う。
分かりやすいシナリオ、分かりやすい場面設定、分かりやすいキャスト。
分かりやすく飛びつきやすいものが絶対的にウケル世の中だ。そんな風に、色んなものが分かりやすくなっているこの時代に、ドランの作品は、痛々しいほど分かりにくく、心の琴線に触れる『愛』の姿を放り込んでくる。