都会の虚空を仰ぎ見る、冷たいビルにぶらさがるゴンドラ 映画『ゴンドラ』レビュー


1988年公開の名作

1988年。
当時、まだ20代だった若者たちが参加し、独立プロで製作した邦画の名作『ゴンドラ』

映画ファンなら誰もが知る不朽の名作と言われる邦画作品である。

以前から観てみたい映画の一つだったが、DVD化されていない事もあり、なかなか観る機会がなかった。そんな中、2016年末にデジタル・リマスター化され、2017年からミニシアターでの上映が開始された。さらに、2019年12月にはDVD&Blu-ray が発売されソフト化が実現した。2020年2月からは、 TSUTAYA TV にて配信開始されレンタルも開始されたので、今回ようやく鑑賞してみた。

1980年代後半の映画なので、その古さが心配されたが、今観てもほとんど違和感がない。公開当時は、ちょうどバブル期。日本は好景気のさなかであった。

映画『ゴンドラ』は、あの時代だからこそのテーマというわけでもなく、実に普遍的なテーマを素朴に描いた名作だ。1980年代だから、2020年だからといったジェネレーションギャップは全く気にせず観られ、令和のこの時代でも心に沁みる。

ここからは、映画のレビューを掲載します。ネタバレに注意して書きますが、ネタバレを気にされる方はご注意ください。

娘の胸のふくらみに気づかない母、居場所を探す娘

映画『ゴンドラ』の主人公は小学5年生の少女(かがり)。都会の真ん中の高層マンションにシングルマザーの母親と二人で住んでいるが、水商売の母は、いつも夜に仕事にでかけるため、母親とはすれ違いの日々を送っている。

映画『ゴンドラ』で、最も印象に残るのは、少女(かがり)の表情だ。
笑うことのない虚ろで不機嫌な表情。

学校でも、自宅でも、街の中でも、かがりの表情は動かない。
いつも何かに不満げで、そして孤独だ。

友達と無邪気に遊ぶこともなく、いつも独りで不機嫌な表情でゆがんだ視野で身の回りを見ている。

そんな、かがりの瞳には何か一筋の信念があるようにも見える。

体はまだまだ子どもなのに、その不満げな表情には、どこか凛とした大人の女性のような強さを感じるのである。まるで、理不尽な家庭環境、自分をとりかこむ社会全体へのささやかな抵抗のようだ。

『ゴンドラ』が名作と言われるのは、この少女(かがり)の存在感だ。それは演技とは思えない『素の表情』による画力であり、少女(かがり)無くしては成り立たなかった作品であったろう。

今の子役の子に、この演技ができるだろうか?
最近の邦画では、なかなかお目にかかれない存在感である。

映画の序盤では、少女(かがり)とシングルマザーである母親との関係性にスポットが当てられる構成になっているため、かがりが抱えている孤独が心に沁みる。身の置所のない居場所のなさ。かがりの心はどこまでも深く暗い海の底のようである。

かがりの母親は、夜の商売をしているせいもあり、かがりに対してこまめに手をかける暇はない。決して娘に冷たくあたる母親でもないが、かいがいしく世話をやく訳でもない。この母娘の関係は、映画のテーマとしてはめずらしくない。だが、この母娘の関係は、後半のかがりのロードムービーにつながってくるので、重要なシーンの積み重ねである。

都会の真ん中の高層マンションの一室。
一見、豊かさを謳歌しているようにも見えるが、かがりの心に鮮やかさはなく、籠の中で傷ついた小鳥こそが、かがり自身である。

このあたりの映画の手触りは、森田芳光監督作品や北野武監督作品にも似ているように感じた。冷えている訳でも無いのだが、無機質で無感情。ちょっとした外圧でむなしく壊れてしまう危うさが怖い。


彼もまた、都会で居場所を探す孤独な青年

もうひとりの重要な登場人物に、かがりと偶然であう青年の存在がある。

都会の真ん中で、高層ビルの窓清掃の仕事をしている青年である。かがりとは窓清掃の仕事中に偶然出会う。

彼もまた、かがりと同じように、孤独で不満げな遠い目をしている。年齢も境遇も全く異なるのに、二人の表情は絶妙にシンクロするのである。

映画のタイトルになっている『ゴンドラ』は青年の窓清掃に使われる移動式の足場のことだ。バブル期にわく日本の高層ビル。その姿は、窓の外と内側ではまったく異なるのだ。

ビルの中で豊かさを謳歌する都会人と、雨風にうたれ汚れた高層ビルの窓ガラスを拭く青森から上京してきた素朴な青年。

決して、青年は内側の人とは接しない。

冷たくもある、この社会のゆがみ。ゴンドラの上で都会を見下ろす青年の瞳も、かがりと同じように居場所をさがしているのであった。

前述したとおり、少女(かがり)を演じた子役の子の演技はすさまじい。しかし、この青年役の俳優さんの演技もまた素晴らしかった。まるで演技をしていないかのようなリアリティが立ち姿にも表れていた。

少し猫背の背中。日に焼けた二の腕。控えめな一重のまぶた。
すべてがリアリティにあふれている。

全体的にセリフも少ない映画だが、その存在感だけで彼が置かれているすべてが見て取れるようだった。彼もまた、彼なくして映画が成り立たなかっただろう。かがりと青年の、酷似した4つの寂しい瞳がおりなす心の居場所探しは、後半にかけて、どんどん心にしみていくのである。

ここで一つ『ゴンドラ』の意味を押さえておきたい。

『ゴンドラ』をウィキペディアで検索すると複数の意味が含まれている事がわかる。その中でも、① ヴェネツィアの運河で使われている幅の狭い小船、②高層建物の改修工事や窓拭きなどの作業者が乗り高所外壁へアクセスするために使用する、上部からワイヤーロープで吊り下げられた足場、の二つの意味がとても重要である。映画を最後まで見ると、『ゴンドラ』というタイトルの謎解きができるので抑えておきたい。


経済的な豊かさと、心の豊かさと

映画『ゴンドラ』は決して商業主義的な映画ではない。

セリフも少なくナレーションもない。どう解釈するかは観る人に任される事が多く、何も考えずに観てしまうと、訳がわからないまま結末まで行ってしまう可能性もある。

何も起こらない、かがりと青年の日常だが、そこに『或るもの』を観る側がくみとって観ていく映画である。

物語の一つひとつには確かな意味があって、それらがすべて一本の道筋になっている。かがりの心と青年の心が場面、場面に散りばめられていて、それらはとても繊細で、道標のように導いていく。言葉に表しにくい少女の心を、丁寧につむいでいく感じは、映画好きにはたまらないであろう。

特に、映画は後半にいくに従い、前半とは異なる様相となっていく。

前半で舞台になった都会の真ん中から場所をかえ、それまでのかがりの生活とは全く異なる場所で、普段は味わえない感情を味わっていく。

後半のかがりと青年とのシーンは、切ないほど暖かく、それまで詰まっていた血管に血が通い始めたかのごとく、指先の隅々まで温かみがもどっていく感覚におちいる。

経済的な豊かさだけでは、決して得られない幸せがある。

それを映画の後半で、優しく手ほどきしてくれるがごとく、観ている人の心を温めていくのである。

ビルの窓清掃員の青年の『ゴンドラ』は、都会の虚空を仰ぎ見る冷たいビルにぶら下がっていた。そこから見る都会は、無情にも冷たく冷え切っていた。でも、青年とかがりが見つけたゴンドラには、碧く澄んだ本物の海にただよっている。それは深く暖かく、確かな二人の居場所である。

TSUTAYAでレンタル可能です。ぜひ、御覧ください。