“きみの鳥はうたえる”『佐知子』と、“寝ても覚めても”『朝子』に見る女性の魔力と魅力


※レビューはネタバレはしていませんが、事前情報を入れずに映画を見たい方は、くれぐれもご注意ください。



昨今、映画館ではキラキラのJK映画が花盛りだ。胸キュンとか、壁ドンとか、顎クイとか…女性をときめかせる言葉は実に甘くて、理想の恋を追い求める女性達の貪欲さは、古今東西、変わらない。

しかしながら、これらJK映画の反対側では、実にシブい邦画も公開されていて、巷の映画ファンを喜ばせているから興味深い。

これらは、決して甘い物語ではないものの、リアルな女性像をあぶり出し、魅力的な女たちをスクリーンの中で羽ばたかせている。

特に最近観た邦画の恋愛映画で、ピカイチ面白かったのは、松岡茉優さん主演の『勝手にふるえてろ』。10年間、脳内恋愛しているこじらせ女子をコミカルに、そして切なく描いた映画だったが、これがとても良くできていて、最後には胸がキュンとするほどの満足感が感じられた。

しかし、今回は、この『勝手にふるえてろ』ではなく、映画館で鑑賞した『きみの鳥はうたえる』と『寝ても覚めても』について書いてみたいと思う。女と男の関係をシンプルに、かつ重々しく描いている良作で、ここに登場する主役の女優さんが、タイプは違うものの、女性という性を上手く表現していたのでブログにレビューを書いてみたい。

佐知子(きみの鳥はうたえる)


『きみの鳥はうたえる』は三宅唱監督作品。三宅唱監督は34歳。失礼ながら、三宅監督作品の鑑賞は今回が初めて。どんなテイストの作品を作るのかは、ほとんど知らずに鑑賞した。

本作は、佐藤泰志さん原作を映画化したもの。佐藤泰志さんといえば、過去にも『オーバー・フェンス』や『そこのみにて光輝く』など、すでに映画化されている文学作品を世にいくつもだしている。これらはいずれも、現代における男女を描きながらも、どこか昭和のような雰囲気を醸し出す世界観が特徴的だ。

長い間、雨風に打たれ錆びついたステンレスを磨いたら、少しだけ鈍い輝きをみせるような、そんな独特のノスタルジックさを感じる。

しかしながら、そこに映し出される男女の恋愛は、そのほとんどが普遍的で、誰もが共感できる恋愛模様が素晴らしいと思っている。

特に特徴的なのは、登場人物のほとんどは、皆が影をもっていて、決してキラキラしていないということ。いや、キラキラしていないというのは語弊があって、どちらかというと、チャラチャラ・キャピキャピしていないというべきかもしれない。

女子高生が夢見るようなフワフワした登場人物もでてこないし、みんなそれぞれに、軋む音がする。ミシミシと軋みながらも、現実社会と折り合いをつけながら生きている若者たち。時に、胸を鷲掴みにされるような苦味を舌に感じ、それでも時代を生きている彼らに、どこか親近感を持ちながら、どこか違う世界を見るような気持ちで眺めていくうちに、何か普遍的なものを取り出して目が覚める感じがするのだ。

佐藤泰志さん原作の過去作と同じく、本作『きみの鳥はうたえる』も同様だった。
彼らが生きている世界は、キラキラもフワフワもしていないのに、どこか煌めいていて、主人公3人の暮らす函館の夜景と一緒に、刹那に美しく浮かび上がる。

そして、映画版の『きみの鳥はうたえる』で眼を見張るほど素晴らしかったのは、主役の佐知子を演じた石橋静河さんだ。

その美しさに圧倒されたのである。

女性の美しさというのは、時代の流れとともに、そのファッションやメイク、ライフスタイルに影響され、時代を写す鏡となる。しかしながら、本作に出てくる石橋静河さん演じる佐知子は、まったく飾りっ気がない。

ほぼノーメイクの顔に、無造作に束ねた髪の毛、地味なシャツとタンクトップ。流行などどこ吹く風だ。
オシャレしているとは言えないスタイルなのに、その芳しい女としての色気と佇まいは尋常じゃなく、ほおって置くことができない魅力を感じさせる。

『一見、地味だよね』

そう見えるかもしれないけれど、函館の夏の夜に浮かび上がる彼女の横顔と笑い顔は、同性の私が見てもそそられるものがある。

そう、最強の女とは、こういう女性をいう。決して攻撃的ではないのに、男性を引きつける、ちょうどいい無防備感、ちょうどいい思慮深さ、ちょうどいいクールさを持ち合わせている。すべてがちょうどいい塩梅の女性である。

決して、四方八方からチヤホヤされる女性ではないのだが、男性と、こういう距離感を保てる女性っていうのは、最終的に幸せにしてくれる男性に引き寄せられるのではないかと思ってしまった。

とにかく、石橋静河さん演じる佐知子は、適役であり、石橋静河=佐知子でなければならなかった映画だと言うこともできるのだ。

ある意味、計算しなくても芳しい美しさが放たれる女の魔力。それが佐知子なのだろうと思う。



朝子(寝ても覚めても)

そして次に映画『寝ても覚めても』の主役である朝子についてまとめてみたい。

『寝ても覚めても』は、純文学作家である柴崎友香氏が書いた恋愛小説が原作となっている。

つまり、『きみの鳥はうたえる』も『寝ても覚めても』も、どちらも文学的な要素をたたえた映画になっているので、とても共通項があることに気づく。

『寝ても覚めても』は、かつて恋に落ちた元カレと別れたあと、全く同じ顔の男性と、再び恋愛関係に陥るというお話であり、朝子と二人の彼との間の恋の葛藤を描いた物語である。

元彼と今彼というテーマは、もうすでに、いくつもの作品で描かれたこ事のある、珍しくない設定だと思う。彼の記憶と、今の彼のぬくもりの間で、揺れる女心は、誰でも容易に想像することのできる設定だとは思うが、本作の場合、主役の朝子のキャラクターに尽きるという感じがした。

前述した『きみの鳥はうたえる』の佐知子とは、だいぶ異なる女性である所も見どころである。

口数も少ないし、おとなしく、自然に溢れ出る透明感が、実に女の子っぽい。おっとりした関西弁も、よけい可愛らしく映るし、男好きするモテるタイプだろう。

『きみの鳥〜』の佐知子とは、だいぶ趣が異なる。

ストーリーとしては、元カレの記憶を引きずる女の子を演じているが、とにかく終始、イライラする。(笑)『なんで?』とか『そうじゃないでしょ』とか、彼女の一喜一憂に、どうしてもイライラしてしまうのだ。私のように感じる同性は、少なくないのではないだろうか?

おそらく、それは、多くの女性が自分を投影してしまうからではないかと思う。
実際、自分が同じ状況になった時に、完全に朝子を否定できないから、俯瞰で見せられるとイライラしてしまうのである。いわゆる『図星でしょ?』ってやつだ。

余りにも普通すぎて、誰にでも起こるような反応をする朝子だから、女が見ると、それは残酷で心の反対側で否定しながらどこか受け入れざるを得ないフラストレーションに苛まれる。だから余計イライラして、「自分は違う」と否定することでジタバタしてしまうのだろう。

過去を振り返っても、大なり小なり、朝子のような残酷な恋をしたことがあるはずなのである。
つまりは、朝子は女の子の陽の魅力と、陰の残酷さを共存させた普通のどこにでもいる女の子であるということもできる。

だけど、きっと朝子は、何度も許されるし、いつまでも愛されるだろう。
愛される理由をいくつも持っていて、そこにいるだけで守られる気配を自然に醸し出す魔力があるのも無視できない。

朝子もまた、理屈では片付けられない、女の魅力の塊であり、それを作らず発しているところが罪深いのである。

映画『きみの鳥はうたえる』と『寝ても覚めても』は、偶然にも同じ時期に公開された、実に映画ファンを喜ばせる邦画らしい邦画である。
そして、どちらも女性を通して、男を描いている所も似ている。

タイプの異なる二人の女性が映し出されているが、その中身は、普遍的な女性魅力と毒である。そして、それが無性に魅力的でありつつ、普通の女性が投影できる身近な主人公であるから、心底、共感しやすいだろう。
ぜひ、劇場で御覧ください。