グザヴィエ・ドランの世界〜たかが世界の終わり(It’s Only the End of the World)〜


今日は、グザヴィエ・ドラン監督の最新作、たかが世界の終わり(It’s Only the End of the World)を観てきました。そのレビューをまとめました。
(※ネタバレには気を使って書いてはおりますが、一部ネタバレに近い表現もございますのでご注意ください)

家族とは、一番近くて、
一番めんどくさい他人ではあるが

冒頭から最後まで、『なぜ本作は、ドラン自身が主役を演じなかったのだろう?』と不思議に思った。

主人公は、12年間もの間、家族の元に帰らなかった若き戯曲作家。もうすぐ自分は死ぬということを家族に告白しようとしている同性愛者という役どころである。年齢の設定こそ少し離れているが、多くの点が監督であるグザヴィエ・ドランと重なる。

なによりも、主人公ルイを演じたギャスパー・ウリエルの視線、表情、その瞳までもが、(過去の)ドランの演技とかぶる。元々、顔のタイプも似ているので、そこに演技が加わると、俳優であるグザヴィエ・ドランそのもののようにさえ見えてしまった。

恐らく、その理由はこうだろう。



グ ザヴィエ・ドラン監督の撮影手法は、監督自身の中に、撮りたい画や表現したい画として明確なものがあり、それらを実現するために、詳細な指示を俳優たちに 出すのだそうだ。演出やアレンジも、撮影の途中で柔軟に変わったりもするのだそう。そんな撮影現場を想像するに、ドランの中にある映画としての完成形が、 現場で演じる俳優たち全員にシェアされ、キャスト・スタッフみんなが、同じ所に向かって積み重ねていったに違いない。

主人公ルイの表情が グザヴィエ・ドランの表情に酷似していることを鑑みると、そんな事を想像してしまう映画だった。当然のごとく、それは主人公ルイ(ギャスパー・ウリエル) だけに限った事ではない。登場人物は5人しかいないのだが、この家族5人すべてのキャラクターが役柄に乗り移ったように鮮明である。

とりわけ、兄嫁のマリオン・コティヤールに至っては、微妙な役どころを、絶妙な具合に演じきっていて、彼女の演技の幅の広さを再確認せざるを得なかった。

台詞も説明もなく進行

本作は、フランスの戯曲を映画化したものだそうだ。
戯 曲の映画化といえば、ドランの過去作の『トム・アット・ザ・ファーム』と同じである。あの映画もそうだったが、登場人物も少なく、閉鎖的な空間の中で、少 ない台詞から登場人物の感情を追っていくような筋立てで進む映画なので、極めて平坦で、好き嫌いを明確に分けてしまう分類に入る映画である。

個人的には、こういうタイプの映画もフランス映画も好きなので問題はないが、恐らく苦手な人には苦手なタイプに入ってしまう。そういう意味では、カンヌ映画祭のグランプリ作品ではあるものの、当時から賛否両論あった作品であったことは頷ける。



そもそも、主人公は台詞がほとんどない。
ゴ クリと鳴る喉の音、潤んでみえるまつげの下がった瞳、顔の半分を覆う黒い影は、主人公の台詞の代わりに、彼の気持ちを追う手がかりになっている。台詞もな いのだから、当然ナレーションもない。一見、何が起こっているのかさえ分からなくなってしまう状況下で、ひたすら繰り広げられる家族ケンカ。

突然帰省した主人公を観て、パニックを起こすかのように戸惑いながらも、家族全員のひとときを幸せを噛みしめる不器用な家族たちがリアルで、終始痛々しいのである。

『もうすぐ死ぬ』という告白をしにきた主人公と、何も知らない家族たち(母・兄・妹・兄嫁)の間には、まるで切り裂かれた2つの世界にいるがのごとくボーダーラインが引かれている。まさに『世界の終わり』が見えている者と見えていない者の2つの世界なのである。

当然のごとく、主人公が死ぬ理由の説明もないし、なぜ、こんなにも家族との間に溝があるのかも理由は語られない。ただし、多少のキーワードで何となく想像はできるので、めいめいが想像しながら、彼らのギクシャクした雰囲気の中に取り込まれていく映画のようであった。

キレイ事ではない家族の肖像

家族っていいよね。
家族ってあったかいよね。

散々、描かれてきたハートウォーミングな家族愛とは一線をおき、いわば、『一番近くて、一番面倒くさい他人』としての家族が赤裸々に描かれているあたりは、ドランの素直な人間考察なのだろうと考えた。

彼らの罵倒を聞きながら、どこか他人事のように見えつつも、どこか親近感を感じてしまう。面倒くさくても逃げられない、自分の原点としての家族の姿なのだと感じた。



特にいい演出だな、と思ったのは、『ルイはママとしかキスはしない』と言う台詞があった後の、ラスト付近のマリオン・コティヤールとの別れのハグのシーン。それまでの兄嫁であるマリオンとの触れ合いが、意味あるものだったことを感じさせた、いいシーンだった。

いつも、グザヴィエ・ドラン監督作品は、愛を渇望しているように思えて、愛に溢れて見える。それは監督としての彼自身の人間的魅力のせいだと思うし、彼の精神的な深みが作品の中に十二分に表現されている所が、熱烈なファンを生み出す原動力であろう。

共演者のレア・セドゥが『グザヴィエ・ドランと仕事すると、誰もが彼に愛されたいと思うようになる』とインタビューで答えていた。

実に、そこだと思う。

そ れはキャスト・スタッフのみならず、スクリーンを通して彼の映画の世界を堪能している観客もしかりなのである。彼が表現する愛の形のシンパシーを感じてし まった瞬間、もっと彼を理解したい、繋がりたいと感じてしまう感覚は、レア・セドゥが言った言葉に似ているのでは無いかと思う。

ここから は余談ですが、本作のパンフレットに“ジェームズ・ディーンは、グザヴィエ・ドランが『マイ・マザー』や『胸騒ぎの恋人』などで、オマージュを捧げてきた アイコン”と書かれていました。個人的に、ジェームズ・ディーンが大好きなので、ドランの中にジェームズ・ディーンの臭いを感じているのかもしれない、と いうことも思ったりしています。

最後に:
グザヴィエ・ドラン監督作品は楽曲の使い方も秀逸なので、オリジナルサウンドトラックもお薦めです!



劇中歌の、Camille – Home Is Where It Hurts が最高にカッコいい♫