嬉しいとか、楽しいとか、自分の喜びの感情には自分で、どれくらいの値段を付けているんだろう?
例えば、
高価な宝石を購入したとする。
高価な宝石を買えたという高揚感。
それをつけた時の優越感やおしゃれを楽しむワクワク感。
そんな気持ちを一定期間味わうことができる。
そんな自分をイメージして、高価な宝石に投資する。
『その価格を支払っても味わいたい!』と思うのだから、
それらが喜びの値段なのかも知れない。
ただ、何かを買ったりすることにより得られる喜びは、
一過性のものでしかないような気がする。
手に入れた瞬間は、気持ちも高揚するし、
幸せいっぱいな気持ちに包まれる。
しかし、物はいつしか古くなったり、飽きていき、見慣れたりする。
だから、喜びの値段は、歳月とともに極端に高くなっていくことはない。
その反面で、知的好奇心は違う。
芸術的なものを理解することができたり、
哲学的視点で物事をみることができたりすることは、
目に見えて物として存在はしないけれど
自分の中で、どんどん膨らんでいくものだ。
そしていつしか、これらが自然と自分の立ち振る舞いになり、言動になりしだいに、「自分らしさ」そのものになっていく。
時間をかけて、ゆっくりゆっくり育つものかも知れないが
その喜びはどんどん大きくなるため、
喜びの値段は高くなっていくのである。
思考を鍛え、脳を鍛えると、どんどんその人は輝き始める。
瞳がキラキラして、人から尊敬され、人に愛されていく。
喜びの値段は、自分のあずかり知らない所でも
高く、高くなっていくと思うのだ。
ファッションや化粧や、持ち物にこだわり、
外見を美しく着飾ることは、男女問わず重要だ。
理想の相手をひきつけ、将来、自分が幸せになるための
パートナーと知り合うためには、まずは外見を磨かなければならない。
しかし、外見というのは、取り外しするものだ。
洋服も化粧も持ち物も、全て身につけたまま寝ることはできない。
24時間、365日、常にキラキラしていることは容易ではない。
だからこそ、持ち物は必要なものだけを購入し、
長く大切に使う方が、いろんな意味で有意義だと思う。
何も身につけない、素顔の状態で
どれくらいの輝きを放つことが出来るかが、
最終的には重要になるような気がする。
そう考えると、知的好奇心を働かせ、豊かな思考を育むことこそが
最も、喜び深いく値段の高いものかも知れないな。
喜びの値段。
いつも、本当に価値の高いものを欲しがる自分でいたいと思う。