哀しいきもち




先日、ある新聞のコラム「from Editor」というコーナーに
こんなコラムがあった。

 

アルジェリアの人質事件で、
事件の犠牲になった方々の氏名を公表するか否かという問題で
この編集者が、思い出した自分の過去の取材についての記憶を
ひもどき、考えたことをコラムにまとめたものだった。

 

この記者が駆け出しだったころ、
踏切ではねられ亡くなった5歳の男の子の
「顔写真を入手しろ!」という鬼デスクからの指示が、
どうしても辛かったそう。

色んな手をつくしても締め切りまで手に入れることができず、
泣く泣く、ご遺族の自宅に向かうことになった。

男の子の家のドアをノックすると、
目を赤く腫らしたお母さんが出てきた。

事情を説明すると、そのお母さんは、
傍らにあった封筒を差し出し

「よろしくお願いします」と頭を下げ、
男の子の写真を手渡してくれたという話だ。

この記者は、この母親が自分に対して
何をお願いしたのだろうか?とずっと考えているそうだ。

このコラムの最後には、

アルジェリアの人質事件の事にも同じ事が言える。
一人ひとりの犠牲者の遺族の悲しみを
社会が共有すべきだと、強く思った。

 

と、まとめてあった。



このコラムを読んで、私の目にはじんわり涙がにじんだ。

新聞の隅に、実に短い文章でまとめてられていたコラムだったが、
大きな悲しみをたたえた文章だったからだ。

 

子供の母親が差し出した封筒の哀しさと、
それを受け取らなければならない悔しさ。

 

発信する側のメディアでは、
よく繰り広げられている光景なのだろう。

 

そもそも、御遺族の悲しみにズカズカ入って、
メディアで生の情報を伝えなければならないものなのだろうか?

視聴者は、そんなに欲しがっているのだろうか?

 

「それを楽しんで観ているのは視聴者であり、
視聴者がそれを望むから流すんだよ」

と、メディア側の反論が聞こえてきそうだが、
もしそうだとしたら、なんとなく虚しさを感じてしまう。

 

御遺族側から、何かの意図があって提供する以外は、
プライバシーの極みだと感じてしまう。

 

そもそも、私たちの感情には、共感できる心が宿っている。



悲劇にあった人そのものをみなくとも、
きっと無念だったろう、
苦しかったろう、
もっと生きたかったろう、

 

そんな風に、相手の立場に置き換えて、
感情をシンクロさせ、御遺族と一緒に悲しむ事ができる。

 

顔もみた事もないし、どんな人生を生きた方かも分からなくとも、
感受性豊かに死を悼むことができるはずなのに、

なんなんだろう?

 

もう少し、社会として、
ご遺族の気持ちや、悲劇に合われた方への配慮できる
成熟した社会になってはいけないだろうか?

そんな風にあらためて思った。

 

自分で取りに行けば沢山の情報がとりにいける時代だ。

事実を知りたい、真実を知りたい、
そういう気持ちで、色んなものを得たくなる。

もちろん、そういう情報から学ぶ事も沢山あるだろう。

 

ただ、もう少し、痛みにやさしい社会になれるといいな、とつくづく思う。